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保田與重郎生家

天忠組の史跡めぐりを終へ、次はマイクロバスで桜井市の保田與重郎生家へと向かふ。

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保田邸は大きな古民家。中央に数名かたまってゐるが、そこには「保田與重郎生誕地」と書かれた石碑が建立されてゐる。しかし、彼らは石碑を見てゐるのではなく、そこに長椅子があり、その長椅子に座って集合写真を撮ろうと椅子を倒してゐる場面。結局、なかなか椅子を倒すことができず、椅子を使はずに集合写真を撮影。
写真でもその大きさはわかるが、中に入ると奥域もありさらに驚き、この土地のこの家で生まれ育ったことは保田與重郎に大きな影響を与へてゐたであらうことは想像に難しくない。

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保田家で存分のおもてなしをうけ、次は近くの等彌神社へと向かふ。
等彌神社の入り口には保田先生が揮毫した「申大孝」の石碑が建てられてある。宮司の説明を受けて正式参拝。
その後社務所で歌会を開催。
そして橿原神宮近くの旅館で直会を行ひ一日目の日程は終了した。
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天忠組史跡

天忠組、吉村寅太郎終焉の地で慰霊祭斎行後、少しマイクロバスで移動して天忠組の史跡をめぐる。
激闘が行はれたところでは数メートルおきに石碑が建ち、地元の人がいかに天忠組を尊敬してゐてその地を大事にしてゐるかがわかる。皆で歩いてゐると地元のおばあちゃんが話しかけてきて、ここはかういふ場所だといふ説明をしてくれた。

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数十分歩いたところに「明治谷墓所」がある。「めいじだに」かと思ってゐたのだが「あけちだに」と読むらしい。墓所の下には「天誅義士墓所」と書かれた大きな石碑が建ってゐる。

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急な階段を登ると、天忠組の9名の墓所がある。吉村寅太郎、那須信吾、宍戸弥四郎、鍋島米之助、林豹吉郎、植村定七、山下佐吉、天保高殿、西田仁兵衛の9名。墓所に花束を手向けて、拝礼。

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再びマイクロバスに乗り込み、次は「湯ノ谷墓所」に。藤本津之助、松本謙三郎、森下猪久馬、福浦元吉、村上万吉の5名の天忠義士が眠ってゐる。

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天忠組終焉の地

6月22日、不二歌道会京阪神奈合同歌会吟行に参加。京阪神奈だけでなく東京からも代表はじめ数名が参加。

最初に訪れた場所は東吉野村の吉村寅太郎終焉の地。大きな石碑が建てられてをり、そこには「天誅組終焉之地」と書かれてゐる。なほ、「てんちゅうぐみ」とはのちの人がさう呼んだので当人たちが名乗ってゐたわけではない。そのために漢字では「天誅組」と書かれることや「天忠組」と書かれることがある。僕は大東塾の影山正治塾長、日本浪曼派の保田與重郎先生の考へを引き継ぎ「天忠組」とする。

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小さな川を渡ると、ちょっとした広場みたいになってをり、そこに様々な碑が建てられてゐる。
一番きれいで目につくのが吉村寅太郎の遺詠の碑である。
「吉野山風に乱るるもみぢ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ」

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そして、大きな磐座の下に、吉村寅太郎の墓碑が建立されてゐる。その墓碑に向かひ、慰霊祭を斎行した。
大きな磐座の下なので、おそらくこの墓碑にはほとんど陽があたらないのではないかと思はれる。しかし、そのことでいい感じの苔の生え方になってをり、ますます神秘的で荘厳な墓碑となってゐると思ふ。

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慰霊祭後、一番目の写真の「天誅組終焉之地」の石碑の前で集合写真を撮る。すると、そこに地元の人の車が通りかかり、その車が停車。降りてきた主婦らしき人が「私が撮りませう」と集合写真を撮ってくれた。その人は「こんなところまで来てくれてありがたうございます」と言ってゐた。地元の人たちは今でも天忠組を誇りにしてゐるのだ。

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